災害において被災された多くの方々に心よりお見舞い申し上げます。
日頃ブログをご利用いただいている中にも被災された方がいらっしゃることと存じます。
山崎もスタッフも大変心を痛めております。
昨年から続き、3月から4月にかけての東北4会場でファイナルとなるはずだった今回の「ONE KNIGHT STAND TOUR 2010-2011」は震災により中止となりました。形式上の最終日となった日に山崎が語ったこと、今後山崎がどういう心構えで臨んでいくかをまとめてみました。
山崎まさよしファンクラブ会報BOOGIE HOUSEに掲載予定の原稿をを転載いたします。
東北4会場ご参加予定だったお客様にはもちろんのこと、山崎の音楽を愛していただいているお客様にいち早く山崎とチーム山崎スタッフの意志をお伝えしたい。どうか届くことを望みます。
山崎の断片的な、しかし熱情を込めた言葉をまとめ、チーム山崎の心情も加えました。
今回のOKSTにとどまらない、今後山崎の音楽が世界とどう向き合うかについて片鱗かも知れませんが、確たる核心部はお伝えできているはずです。
東北の皆様、そして全国の皆様に今後の山崎まさよしの音楽活動を通じて、少しでも力になれればと願います。
オフィスオーガスタ 穂苅太郎
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山崎まさよしOKST2010-2011
「今日の話をまとめて書いてくれんか?」山崎が言う。
OKST3月21日伯方開発総合センターを終えた打ち上げの席でのことだった。
本来最終シリーズであった東北を震災により中止したため、ツアー最終日となってしまった日。
様々な思いが、何度も繰り返された議論が、そして音楽があった。
なによりもどうにもできない現実があった。
とうていまとめることは不可能だ。
自分の中でさえ今は何も決着していない。
でも、これから何度も言い続け、伝え続けていく手始めとして記していきたいと思う。
山崎が山崎であるために。音楽が音楽であるために。
おこがましいけれど、自分が自分であるために。
「今日でいったんツアーは中断しますが、このツアーの本当の千秋楽は東北シリーズが終わったときです。その日を迎えるためにがんばりましょう。今日はそのための決起に向けて乾杯します。」
普段は口べたなコンサート制作の永塚が言う。
山崎のツアー打ち上げはエピソードを量産することでご存じの通り、いつもならば非常に盛り上がる。
喜んでくれたお客さんの顔を思い出し、
素晴らしかったパフォーマンスを思い出し、
数々の困難を思い出しながら。
今回の打ち上げほど沈痛な雰囲気になったことは無かったけど、同時に今回の打ち上げほど全員の意識が一つになったことも無かった。
「どこにぶつけていいか分かんないっすけど、悔しい。東北絶対やりましょう。終わんないトスタンドツアーです。」
精一杯のギャグを目に涙をいっぱいに溜めながら、舞台監督のシゲさんが言う。
チーム山崎のスタッフは皆十年以上ともにステージを作ってきた。
特にOKSTはキャストは山崎のみ、バックアップするのはスタッフしかいない。
誰もがこのツアーには思い出と誇りと愛情をたっぷり持っている。
2001年9月11日テロの日も、昨年山崎が初めて病気でライブを飛ばしたときも、海がしけて佐渡島から新潟に当日移動し、突貫でセッティングをして事なきを得た日も、雪でバスの中に10時間閉じ込められた時も、このチームが一緒だった。どんな困難な状況でもどんなにつらい精神状態でも乗り切ってきたチームが、今回ばかりは為す術がない。しょうがないのかもしれない。もちろんそうだろう。
でもこのチームは一人一人の存在価値と誇りをかけた、山崎の音楽を届けることを唯一の目的とした組織=システムだ。
それ以上でも以下でもない。
「なんにもならないって、そんなこと誰よりもわかっていたけど、やっぱり歌うことしかできんから。歌いたかった。」
口には出さないけどこのことはきっと苦しんだのでは?
との問いに応えて、山崎が言う。
音楽はやっぱり無力だと突きつけられる苦悩がある。
同じ重さでおのれの音楽の力に対する自信がある。
今までそのためにステージに立ってきたというプライドがある。
同じ大きさでお客さんの気持ちが何よりも大切だという思いがある。
「そしてこのギターケースは私と一緒に旅を回ります。」
震災後決行した沖縄・四国シリーズのロビーには山崎の発案によるギターケースの募金箱が置かれた。
そこに添えられたこのメッセージは、募金をしてもらうのは自分が歌う場所だ、という山崎の意思表示に他ならない。
歌を生業にしていても、いったんギターをおいて募金箱を手にする人、義援金を送る人、ただひたすら祈る人、それぞれが出来ることを選択している中で、それらの行動を非難するのではなく、そうせざるを得なかった山崎の選択なのだろう。
歌うことしかできない、伝える手段は音楽しかないことを知り尽くした山崎という人間の、それは然るべき行動なのだろう。
「やっぱり歌いたい。歌わしてくれ。」
なんども繰り返し山崎は言う。
そう言い続けないと心が折れてしまうかのように。
震災後のツアーをもし事務所から中止を告げられたら、ギターを持って、身一つで歌いに行こうと考えた。
出来ることなら東北も予定どおり決行したかったという。
震災直後キョードー東北の椎からは無事の知らせもとりあえず、
「こちらは壊滅的状態です。会館も避難所になっています。交通も通信もだめです。
でもですね、来ていただけないでしょうか。
山崎さんの歌を、今だからこそ届けたいんです。どうにかします。」
どうにもならないことは現地仙台にいる椎が一番知っていたはずだ。
「すいません。どうしても出来ません。必ずもう一度東北シリーズ組ませて下さい。」
涙とともに連絡が来たのは二日後の日曜だった。
「待っていてくれるお客さんがいて、歌いたい自分がいる。だからライブはやり続ける。
来れなかったお客さんのためには、また歌いに行けばいい。
ライブは何度でもやる。止めない。ええやろ?」
山崎まさよしOKST2010-2011は終わらない。